現場感の喪失

戦時中、生死をくぐりぬけるような体験をしてきて、戦後、瓦礫の中で起業した経営者達にとって、人間の生も死も、とてもリアルな現実だったことだろうと思う。死がリアルだったからこそ、失うことを恐れずに大胆な決断をしてこれたのだろうし、生がリアルだったからこそ、働くこと、生きることから得ることのできる喜びもひとしおだったのだろうと思う。

どの会社も小さかったから、現場と経営との間に距離は生まれようがなかった。社会は、会社にとってとても近しい関係だった。会社は社会の縮図だったし、社会の問題は会社の問題でもあり、ビジネスを通じて解決すべきものでもあった。実際にその時代を生きたわけではないから本当のところはわからないが、想像するに、そんな感じだったのではないか。

本田宗一郎は現場・現物・現実を何よりも大事にする「三現主義」を唱えた。本田宗一郎に限らず、日本の多くの経営者達、特に、製造業の経営者達は、「現場」を何よりも大事にする。「三現」と言わないまでも、「現場主義」は偉大な経営者に共通する。その経営者達のDNAを受け継いで、今も多くの企業が「現場主義」を唱えている。

しかし、そこで言う現場とは何なのか?

製造業なら工場が現場だろうし、土木・建設業ならまさに建設現場が現場だ。小売やサービス業なら接客の場所が現場だし、飲食だとそれに厨房が加わることになるのだろう。ものを作ったり、採ったり、それを売ったりする物理的空間と、その上で展開される人と人、人ともの、人と自然とのやりとり。その総体を「現場」と言うのだとすれば、それはいつの時代も、どの企業にも存在するはずのものだ。

だが、現場の質は、時代と共に変わってきていると思う。
何が変わったかといえば、社会との距離感だ。
現場は社会からどんどん遊離し、会社の中に包含されるようになった。
その結果、現場が変質してしまった。

わかりやすく言えばこういうことだ。
例えば今は大企業になっている製造企業も、もともとは町工場から出発している。その頃は、工場の中で働きながら、街を行き交う人々の息吹を感じられたはずだ。ものをつくることが生活の風景の中に溶け込んでいた。工場と社会との距離は近く、現場と社会の境界は曖昧だった。

だが、企業の成長に合わせて大きな工場を持つようになると、社会との距離が開いていく。人が住んでない場所に工場を建てたり、関係者しか入れないようになっていくと、工場と社会との距離はどんどん開いていく。

社会の側も、匂いや騒音を嫌って、現場を意図的に遠ざけていく。建設現場のように動かしがたいところでも、覆いをさせて、何が行われているか、見えないよう、聞こえないようにさせる。

結果、現場は社会と隔絶した場所として成立するようになる。現場は社会の中ではなく、会社の中にあるものとして意識されるようになる。現場が自閉していくのだ。

現場が社会から隔絶すると共に、会社も社会から隔絶していったのだと思う。町工場の頃は社長のことを「おやじさん」と呼び、文字通り同じ釜の飯を食べる、疑似家族的な集団だった会社も、大きくなるにつれ、どんどん官僚的になって、人間的なやりとりが失われていく。会社そのものが社会の縮図だったのが、だんだん利益追求集団という特殊な社会へと変質していく。

そうなると、「利益」という色眼鏡をかけてしかものごとを見なくなる。例えば、接客の場面でお客さんを目の前にしていても、人間として見る前に金ヅルとして見る。極端に言うと、そういうことが起きる。

現場が、ものをつくったり、採ったり、売ったりする物理的空間と、その上で展開される人と人、人ともの、人と自然とのやりとりの総体だとすれば、物理的空間のあり方も、その上でやりとりされる関係の質も、共に決定的に変わってしまったのだと思う。

その結果、「現場感」のようなものがどんどん失われていったのだと思う。ここでいう「現場感」とは、人が、人やものや自然とリアルに関わり合っている感覚のことだ。いつの時代も現場はある。だが、現場がどんどん社会から隔絶していくに伴って、現場感が失われていった。

現場主義を唱えながら、現場感がない。
それが今の日本の多くの大企業が陥っている根本的な問題だと思う。
(文/井上岳一)

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