恩寵としての矛盾

先日の都知事辞任の記者会見の中で、石原慎太郎氏が毛沢東の著作『矛盾論』と『実践論』に言及していた。

かつて学生運動が盛んだった時代によく読まれたというから、「懐かしい」と思われた方も多かったのではないか。かく言う自分は、学生時代に読んで以来、ほぼ20年以上本棚の中に眠っているままになっていたこの本(岩波文庫版『実践論・矛盾論』初版1957年)を、思うところあってちょうど引きずり出していた矢先だった。なので、石原氏の発言には、「懐かしい」というよりも、「やはり『矛盾論』ですか…」という妙な既視感にとらわれたのである。

 

「教条主義」と「経験主義」を超えて

100ページに満たない小冊子『実践論・矛盾論』は、毛沢東の思想のエッセンスを伝える学習教材として中国共産党で広く読まれたものらしい。マルクス・レーニンが掲げた唯物論的弁証論の最良の解説書として評価が高く、日本でも「共産主義は嫌いだが、毛沢東の『実践論・矛盾論』は読むに価する」と言う人は少なくない。実際、石原氏も、「共産主義は嫌いだが」とわざわざ断った上で、この本を引き合いに出していた。

ちなみに、石原氏は、「目の前にあるやっかいな問題、矛盾を解決するためには、背後にあるもっと大きな問題を解決しなければならない」という『矛盾論』の指摘は全く正しいと思う、だから自分は国政に進出するのだ、というような説明をしていた。ざっと読み直す限り『矛盾論』の中にそのままずばりの記載はなく、氏の理屈はどちらかと言えば『実践論』で述べられていることに近いように思うが、まあ、そこはおいておこう。

『実践論』も『矛盾論』も、共に1937年に書かれたものである。その目的は、当時党内に蔓延していた「書物のなかの断片的な言葉をうのみにして、人をおどしつけていた」教条主義的思想と、「自分の断片的な経験にしがみついて、革命的な実践にたいする理論の重要性を理解せず、革命の全局面を見なかった」経験主義的思想の克服にあった。とくに教条主義的な思想については、「1931年から1934年まで、中国革命に莫大な損害をあたえ」「多くの同志を迷わせた」として、毛沢東は厳しく批判している。

 

 

「世界を変える」ための認識論

何らの検証も経ずに、理論のつまみ食いをして自己を正当化する教条主義と、自己の狭い経験にのみ固執する経験主義の蔓延。どこかで聞いたような話ではないか。社会も会社も、およそあらゆる組織がダメになる時は、教条主義と経験主義に毒されていくものなのだろう。その教条主義と経験主義を乗り越えるために毛沢東が注目したのが、「実践」と「矛盾」であった。毛沢東にとって、「実践」は、正しい認識を得るために必要不可欠なものであり、「矛盾」は、事物の運動の原動力だった。実践すること。矛盾と向き合うこと。教条主義と経験主義を乗り越えるには、この二つが必要だというのが毛沢東の理解であり、主張である。

『実践論』は優れた認識論である。例えば、「誰でも、なんらかの事物を認識しようとするなら、その事物に接触すること、すなわちその事物の環境のなかで生活する(実践する)こと以外には、問題解決の方法はない」という言葉がある。或いは、「世界改造の闘争」とは、「客観的世界を改造するとともに、また自己の主観的世界をも改造し―—自己の認識能力をも改造し―—主観的世界と客観的世界との関係を改造することである」とも述べられている。世界を変えたかったら、まずはきちんと認識することから始めよう。そのためには、事物に触れないといけない。そして、物理的に世の中を変えようとするだけでなく、自己の認識を変えると共に、自己と世界との関係を変えなければいけない。毛沢東のこの指摘は、極めて正しい、と思う。

宮崎駿は『もののけ姫』で「曇りなき眼で、見定める」ことを「呪いを断つ」ための方途としたが、『実践論』における毛沢東も同じことを言っている。そして、『もののけ姫』の主人公アシタカがあえて矛盾に満ちた現実世界に飛び込んでいったように、「曇りなき眼で、見定める」には、現場で実践を積み重ねるしかない。「実践を通じて真理を発見し、また実践を通じて真理を立証し真理を発展させる」(『実践論』)ほかないのである。

 

矛盾がなければ世界はない

『実践論』が毛沢東の認識論だとすれば、『矛盾論』は運動論であり、発展論であり、存在論である。実践が認識のための前提なら、矛盾は運動や発展にとっての、いや、存在そのものにとっての前提である。毛沢東が矛盾をいかに根本的なものと捉えていたかは、例えば、以下の記述に明らかである。

「事物の発展の根本原因は、事物の外部にあるのではなくて、事物の内部にあり、事物の内部の矛盾性にある。どの事物の内部にもこのような矛盾性があり、それによって、事物の運動と発展がひきおこされる。事物の内部のこの矛盾性が事物の発展の根本原因であり、ある事物とほかの事物がたがいにつながりあり、たがいに影響しあうことが、事物の発展の第二の原因である」。

ここで毛沢東のいう「矛盾」は「対立」とほぼ同義である。それは階級間の矛盾であり、新しいものと古いものとの間の矛盾である。マルクス主義だから「生産の社会性と所有の私的性質との矛盾」なんて言葉もある(何のこっちゃ…)。

その「事物の発展の根本原因」たる矛盾には、普遍性と絶対性があると言う。普遍性・絶対性とは、「矛盾がすべての事物の発展過程のうちに存在する」ということであり、「すべての事物の発展過程のうちには、始めから終わりまで、矛盾の運動が存在する」ということでもある。毛沢東にとって、矛盾は発展の契機であり、運動のエネルギーであった。だから、「すべての事物のうちに含まれている矛盾の側面の相互の依存と相互の闘争とが、すべての事物の生命を決定し、すべての事物の発展をうながす。どんな事物でも矛盾をふくんでいないものはなく、矛盾がなければ、世界はない」とまで言い切るのである。

 

生きることは、矛盾を更新し続けること

生命もまた矛盾である。「生命とは、なによりもまず、ある生物がおのおのの瞬間に、同一物であり、しかも他のものであるという点にある。だから、生命もまた事物と過程そのもののなかに存在するところの、たえず自己を定立し、かつ解決しつつある矛盾である。そして、この矛盾がやめば、ただちに生命もやみ、死がはじまる」(エンゲルス)。生命とは矛盾に基礎付けられたものなのである。矛盾の消滅は生命の滅失を意味する。逆に言えば、生きることとは、矛盾を更新し続けることにほかならない。

矛盾は普遍的で絶対的だから、生きる限り矛盾から逃れることはできない。だからと言って、矛盾を放置したり、諦めたりせず、それでもなお矛盾の克服に向けて努力する。それが生きるということなのだ。仮に一つの矛盾が克服されたように思っても、また新たな矛盾が出てくる。「新しい過程はまた新しい矛盾を含んで」いる。「敵対はなくなるが、矛盾は存続する」(レーニン)。

『実践論・矛盾論』が書かれた1937年は、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まった年である。混迷を深める情勢の中で、毛沢東はドグマや経験に捉われることなく、現実をきちんと認識することの重要性を説いた。そのための実践であり、矛盾だったのである。当時44歳の、次の時代の建設を見据えた毛沢東の覚悟が胸を打つ。

当時の中国とは比ぶべくもないのかもしれないが、現在の日本も混迷を深める一方である。ここで「呪い」を断ち切るためには、「曇りなき眼」で現実を認識することから始めるほかないのだと思う。そのためには、「事物に接触」し、「事物の中で生活する」しかない。当たり前だが現場・現物・現実からしか、ことは始まらないのだ。

 

恩寵としての矛盾

だが、我々は、現場・現物・現実をどれだけ見ているというのだろう。例えば、現場主義を唱える企業は多いが、本当に「事物に接触」することがどれだけあるだろうか。管理者達は、現場の従業員や取引先を回り、話をするだけで現場を見た気になっていないか。従業員や取引先と言ったステークホルダーは勿論大事だが、それは利害関係者であるだけにそもそも限界がある。できるだけ中立的な相手や、もっと言えば、あえて批判的な相手と会わない限り、特に大企業においては、「事物に接触する」ことはできないのではないか。「身内」の世界に留まる限り、事物はそのありのままの姿をさらしてくれないはずだ。

その意味で、これまであえて見ないで済ましてきたような矛盾と向き合うことが重要になるのだと思う。ここで言う矛盾は、タブーと言い換えてもいだろう。およそあらゆる組織にはタブーが存在する。例えば、売上の柱となっている主力商品を批判的に見ることは許されない。ひたすら愛すること、忠誠を誓うことが求められる。勿論、ものづくり企業として自社の商品に誇りを持つのは当然だし、社員が一番のファンでなくては嘘だと思う。だが、そのことの中に既に矛盾が潜んでいる。批判をすることがいつの間にかタブーとなってしまうからだ。タブーが強くなると、毛沢東が最大の敵とした教条主義と経験主義が蔓延することになる。

あえて自らのタブー、組織に潜んだ矛盾と向き合う努力をしない限り、事物は見えてこないし、発展も終わってしまう。逆に言えば、自らのタブー、組織に潜んだ矛盾と向き合う度量を持つ組織だけが、次の時代も生き残ることができるのだろう。その意味で、矛盾は天啓であり、恩寵である、と言える。

もうそろそろ矛盾が露呈することを恐れるのはやめようじゃないか。毛沢東が言うように、矛盾は発展の契機であり、生きる原動力である。矛盾を天啓であり、恩寵ととらえることができるか否か。そこに組織の、もっと言えば社会の命運がかかっていると思うのだが、どうだろうか。

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