「対話」がブームである。
「対話」や「ダイアローグ」をテーマにしたワークショップやイベントが人気で、セミナーに言っても、講師の話を聞いた後に受講者同士の「対話」の時間が持たれることが増えてきた。勉強会や読書会のブームも「対話」の流行と無縁ではあるまい。世の中の人は、間違いなく「対話」を求めている。
「対話」と「会話」や「議論」と
ここで言う「対話」は「会話」とは何が違うのか。
「会話」はチャット、いわゆるおしゃべり、雑談のことである。カンバセーションと言えば、チャットよりはもう少しフォーマルな感じがするが、それでも、くだけた雰囲気の中で、どちらかと言えばその場の人間関係を継続させたり、その人と共にいることを楽しんだりするために続けられる言葉のやり取りが「会話」であると言えるだろう(Conversationの語源は「関係を続けること」である)。
一方、単なる雑談ではなく、より深い部分までを話し合うことが「対話」と言えそうだ。「自分と対話する」と言えば真剣に自問自答している様が思い浮かぶか、「自分と会話する」と言うと独り言を言っているように思える。「対話」と「会話」の違いは、深みとか真剣味の違いであると思う。
真剣味という点では、「議論」(discussion)や「討論」(debate)と何が違うのか。discussの語源には「叩く」という意味があり、debateの語源には「戦い」という意味があるように、「議論」も「討論」も相手を打ち負かすためのものという意味合いが強い。これに対し、「対話」は相手を理解するためであったり、相手と共に何かを生み出すためのものであったりする。「議論」や「討論」が攻撃的、排他的であるとすれば、「対話」は受容的である。だから、「対話」系のワークショップなどでは、しばしば「相手の言うことを否定しない」というルールが課されることがある。
ちなみに、「対話」に関する古典的名著、デヴィッド・ボームの『ダイアローグ』(邦訳は英治出版より2007年に刊行)では、対話(dialogue)は語源的には「意味の流れ」を意味するものだと説明される。人が話し合う。その言葉のやり取りの中に、新しい意味が立ち現れてくる。その結果、これまでにない自分や相手との関係が生まれる。自分や相手と出会い直すと言ってもいい。それが「対話」だとされる。
「対話」ブームの背景
受容的であること。新しい意味の立ち現れ。出会い直し。
恐らくこれらのキーワードが、対話がブームになっていることの背景にある。裏を返せば、普段の生活の中では、なかなかそういうことを感じられる場面が少ないということなのだろう。実際、対話系のワークショップやイベントに参加すると、「普段、会社ではこんな話はできない」とか「こんなに自分の話を聞いてもらったことがない」とか「仕事では出会わないような人と出会えるから楽しい」という声が多く聞かれる。普段の生活があまりに対話と遠いから、わざわざ対話のために設定された場や時間を求めているようだ。そして、対話の経験に恵まれなかった人が対話に出会い、対話にはまると、十中八九「対話があれば社会は(或いは会社は)変わる!」「対話の力で世界を変えよう!」と興奮し出す。対話系のワークショップを主宰する側、すなわち対話を飯の種にしている人達も「対話の力で世界を変えよう!」と煽るから、今やすっかり対話は社会変革や組織変革のツールともてはやされるようになっているのである。
確かに対話は楽しい。対話ができた相手とは距離が確実に縮まる。対話をきっかけに抗争や紛争や戦争が終結するなど、歴史が動いたこともあったろう。
だからと言って、「対話の力で世界を変えよう!」と言われると、「待てよ」と思う。対話系のイベントやワークショップに行っていつも感じるのはその違和感だ。
対話はあったほうがいい。それは間違いない。だが、例えば、はやりのワールドカフェをやるようになれば会社は本当に変わるか?対話のための場を設ければ、それで組織は変わるのか?
「対話」で会社は変わるのか?
変わる部分は勿論ある。対話的な時間や空間を設けることで、今まで話し合わなかった人が話し合い、知り合うようになり、親密度は増す。相手に対する興味が芽生え、受容的な雰囲気が生まれる。それがきっかけとなって仕事がスムーズに回り出すことはあるだろう。「三人集まれば文殊の知恵」ではないが、一人で悶々としているだけでは思いつかなかったアイデアや問題解決のヒントに出会えることだってあるはずだ。
だが、多くの場合、対話は対話のためのものになってしまう。すなわち、対話で得られる親密感や受容的な雰囲気は、対話のためにしつらえられた特別な時間なり空間なりの中だけで終わってしまい、ひとたび仕事のモードに戻れば、そんなものは消し飛んでしまうのだ。対話時の「いい雰囲気」はその場限りのものであって、なかなか続かない。対話の場では素敵に思えたアイデアも、冷静になって現実的に考えると困難ばかりが目につくようになる。
だから、会社の中に対話を持ち込もうとすると、たいがい挫折する。対話のための時間や場所は、組織にとって必要不可欠なものとは見なされず、存在意義を問われるようになる。面白いと思ってくれる人はいても、マジョリティには理解されないし、対話の効果を定量的に示すことは難しいから、費用対効果もはっきりしない。結局、会社にとっての異物か無用物として排除されるのがオチである。
「対話」と「対話的」の間
自分自身の失敗も含め、そんな対話の挫折の歴史を振り返って思うのは、当たり前だが、対話自体を目的にしては駄目だということだ。対話できる関係になれば、対話できる雰囲気ができれば、会社は、組織は、社会は変わると思うのは、幻想であり、倒錯である。「対話」を売りにする人達は、この点を間違えている(まあ、確信犯なのだろうけど)。
結論から言えば、目指すべきは会社という組織を対話的な存在にすることであって、対話という手法を根づかせることではない。対話という手法は会社を対話的にするのに役立つこともあるかもしれないが、対話のための時間や場所をあえて作らずとも、会社は対話的になり得る。当然ながら、対話は手段であって目的ではない。「対話的であること」と「対話の場をつくること」とは別物だということを認識する必要がある。
では、「対話的である」とはどういう状態か。どうすればその状態をつくれるのか。それについては、次回。(文責/井上岳一)