「対話的である」ということ

対話がブームになっているが、「対話で社会(会社)を変えよう!」的な言説にはどうにも違和感を感じてしまう。違和感を感じるのは、対話の場を埋め込めば、その組織なり会社なりが「対話的」になるという勘違いがまかり通っていると思うからだ。前回のコラムではそう書いた。

では、一体、「対話的である」とはどういう状態なのだろうか。今回は、それについて考えてみたい。

 

他者の存在を前提にする

「対話的である」とは、可能性や矛盾に対して自らを開き続けることだろう。自分の前提や境界や領分を問い続け、上書きし続けられることだ。最低限必要になるのは、自己開示と傾聴である。会社であれば、会社にとって都合の悪い情報も公開する。自分にとって耳の痛い話にも真摯に耳を傾ける。それが最低限の作法だ。

言い換えれば、「対話的である」とは、他者の存在を前提にするということだ。他者の目で見れば、自分達のやっていること、言っていることに必ず矛盾や綻びが見つかる。その時、臭いものに蓋をするのではなく、矛盾を矛盾として受け入れ、それを乗り越えるための方策を探し続ける。今のあり方を所与とせず、常に前提を疑いながら、新しい可能性を探し、試し続ける。他者の存在、他者の目線をテコに、自らを刷新し続ける仕組みがある、ということが「対話的である」ということの本質なのだろう。それは、他者と協同しながら自分を作り上げるプロセスだとも言える。

協同作業なのだから、当然、相手次第で自分のあり方は変わってくる。だから、「対話的である」ことを突き詰めていくと、会社は不定形にならざるを得ない。それは風雪に耐えて生きて来た巨木が異形の姿になるのに似ている。木には定まった形はない。光と水を求めてどこまでも伸びていこうとするエネルギーと、風や重力という物理的制約との「対話」の結果として個々の木の形ができあがっていくからだ。樹木の形とはいわば生命と環境との「対話の軌跡」であるとも言えるだろう。

 

「対話的」の反対語としての「原理主義的」

ちなみに、「対話的」の反対語を挙げるとすれば、「原理主義的」だろうか。原理主義の本質とは、対話の拒否にある。情報は公開しない。他人の話にも耳を傾けない。金科玉条のように自分達の信念を貫こうとする。矛盾には蓋をし、可能性には目をつぶる。原理主義者にとって、他者は存在しないに等しい。

こう書けば、多くの人は「原理主義的」になったら終わりだと思うだろう。だが、会社や組織は、いつの間にか原理主義に陥っていく。本来は手段であるはずの利益や効率、量的成長が自己目的化してしまうのはその典型だ。「何のためにこれ以上の利益を求めるのか」と聞かれて答えられる人はいなくても、利益の追求が金科玉条になっていく。効率を追求するあまり、職場で仕事以外の話をすることが許されなくなる。どんなに市場が縮むとわかっていても、右肩上がりの経営計画を作らないと許されない…。

これを経済原理主義と呼ばず何と呼ぼう。

対話的な生き方が樹木の成長プロセスに喩えられるとするならば、原理主義的な生き方は動物のそれに喩えられるかもしれない。動物は、生まれ落ちた時から形が決まっている。顔かたちや身体のサイズに個体差はあっても、環境の変化に応じて変幻自在に身体の形を変えることはできない。成長の途上で手足の数が変わったり、首の向きが変わったりすることはない。DNAに書き込まれた設計図どおりに育つのが動物である。その意味で極めて原理主義的である。

樹木と動物のどちらが生命として優れているとは一概に言えないが、個体として長命なのは間違いなく樹木である。対話的な存在のほうが原理主義的な存在よりも長命というのは、記憶に留めておいて良いだろう。

今、多くの企業が生き残りをかけて経済原理主義的な方向に舵を切っているように見える。だが、生き残ることを目指すならば、むしろ対話的な方向を選択すべきだということを長命の樹木達は教えてくれている。対話的な生き方には答えがない。対話的であり続けた結果、これまでの常識では考えられない異形の組織になっていくのかもしれない。だが、それを受け入れる覚悟と勇気を持つことが対話的であるということの本質だと思うのだが、どうだろうか。(文責/井上岳一)

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