ソーシャルセンサーの行方
その2:書くことと考えること

よい問いがよい答えを出すのだが、よい問いは次の問いもつくり出すということも忘れてならない。答えを急いではいけない、あくまでも問いそのものの質に目を向けてほしい。そして社会の課題に対して、根源的な問いをつくることがソーシャルセンサーの役割なのだ。

前回のコラムで、そう書いた。

では、その問いはどうしたら作り出せるのか?
それは「書くこと」によって生まれると僕は信じている。

 

-書くから考える
職業柄、毎日原稿に向かうが、あらかじめ考えがあるから書くのではない。
毎日白紙の原稿用紙に白紙の頭で向き合うようにしている。
そして、いつの日からか、考えがあるから書くのでなく、書くから考えるのだと思うようになった。書き始めた文章は、時として思わぬ方向へ話が進むこともある。こう書こうと思って書き始める文章も、途中で、自分の考えではないのではないかとか、反芻し頭が回転し始める。1000文字、2000文字と書き進むうちに、論理の矛盾や、問い自体が陳腐化していたり、新しさがないことに気づいたりする。

だから書き直し、何度もその問いを問い直していくのだ。

書くということ、手や肉体を通して行うことで、頭の中と体がつながっていくような感じを覚える時がある。多くの人が書くことをためらい、考えることから始めるのもよく知っている。しかし順番が逆なのではないかと思う。書くから考えるのだ。書かないと考えない、とも言えるだろう。

 

-社会を鏡として自分を見つめる
最近の企業は、会議の時に資料をたくさんつくっている。
その文章はほとんどが箇条書きだ。

そこに散りばめられているたくさんの言葉をみるときに、どんな問いを投げかけているのか、それが見つけられない。表層的な言葉の羅列に困惑する。必死に言葉と言葉の隙間を埋めていこうと考え始めるが、すぐに壁にぶつかってしまう。そんな資料や企画書が多いように思うのだ。

最近、それは日常的に文章を書いていないからではないかと思い始めている。書いていないから考えにまとまりがないのだ。逆に、まとまった文章で書くことを通過して来た言葉には強さがあり、ぶれない思考を感じるのは僕だけだろうか。

今、社会にとって必要なことは「書くこと」であると思う。書くことによって、自分を見つめ、自分自身を問いなおしていくこと。そして社会を鏡として、自分を見つめていると、自然と浮かび上がってくる言葉がある。それはあたかも修練を積んだ武道家が刀を振る時に似ている。知識や技術は肉体と一体になり、強さが宿る。だからこそ、時間がないと言わずに、多くの人に書いてほしいのだ。

 

-書くことで次の問いに向き合っていく
企業と社会の狭間に生きるソーシャルセンサーにとっても、書くことはとても重要だ。いや、完成した文章をおそるそる社会に公開していくときの緊張感が、ソーシャルセンサーの醍醐味とも言える。何かを発する、感じてもらう。気づいてもらう。そこにソーシャルセンサーの役割がある。どんな反応が返ってくるのか。その緊張感とともに、社会からの反応に答え、そしてまた次の問いに向き合っていく原動力を手にすることができる。
ソーシャルセンサーとはそういう人を言うのではないだろうか。

「書くから考える」みなさんはどう思いますか?(文/土谷貞雄)

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