好きになることから始めよう

 

金城一紀の傑作短編小説集『映画篇』の中に、「愛の泉」という名の作品がある。大学生の主人公が、おじいちゃんを亡くして元気をなくしてしまったおばあちゃんのために、おじいちゃんとの思い出の映画を自主上映することを企画するというストーリーの、『映画篇』のフィナーレを飾るにふさわしい、とっても素敵な小説だ。

この小説の中で、自主上映をする映画のフィルムを探す中で出会った大学教授(浜石教授)と主人公(僕)が以下のようなやりとりをする場面がある。

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 「ところで、君は人を好きになったらどうするの?」
 どうするのって言われてもなあ、と思いつつも、僕は答えた。
 「その人に思いを伝えますね、たぶん」
 「伝えるだけ?」
 質問の意図が深まっていくのを感じたので、戸惑って返事をできずにいると、浜石教授は真剣な光をかすかに目に点して言った。
 「君が人を好きになった時に取るべき最善の方法は、その人のことをきちんと知ろうと目を凝らし、耳をすますことだ。そうすると、君はその人が自分の思っていたよりも単純ではないことに気づく。極端なことを言えば、君はその人のことを実は何も知っていなかったのを思い知る。そこに至って、普段は軽く受け流していた言動でも、きちんと意味を考えざるを得なくなる。この人の本当に言いたいことはなんだろう?この人はなんでこんな考え方をするんだろう?ってね。難しくても決して投げ出さずにそれらの答えを出し続ける限り、君は次々に新しい問いを発するその人から目が離せなくなっていって、前よりもどんどん好きになっていく。と同時に、君は多くのものを与えられている。たとえ、必死で出したすべての答えが間違っていたとしてもね」
 浜石教授はいったん言葉を切り、柔らかく微笑んだ。
 「まあ、人であれ映画であれなんであれ、知った気になって接した瞬間に相手は新しい顔を見せてくれなくなるし、君の停滞も始まるもんだよ」

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好きだから知りたくなる

そう、僕たちは、人を好きになると、何をおいてもその人のことを知りたくなる。いきなり思いを伝えても関係はつくれない。相手のことを知り、関係をつくって初めて思いを伝える素地ができる。

だが、相手のことを知れば知るほど、逆に謎は深まってゆく。なぜこの人はこういうことを言うのか。どうしてあんな行動をしたのか。わからない。わからないから考える。考えてひとまずの答えを出す。だがその答えはほどなく裏切られる。相手は自分の思っているほど単純ではない。考えれば考えるほどわからなくなる。相手の存在そのものが問いになる。

そうなるともう相手から目が離せない。四六時中その人のことを考え、一挙手一投足に目を凝らし、語る言葉に耳を澄ますようになる。そして、表面的な言動の背後にある、「もっとほんとうのもの」を探り当てようと必死になり、自分の全身全霊をかけて相手と向き合うようになる。

そういう相手と巡り会えた人は幸せだ。その人と出会うために自分は生まれたと感じ、その人のことを理解し、その存在に触れることが自分の人生に与えられた使命だと感じるようになるだろう。簡単には答えの出そうにない問いと出会えることは、僥倖である。僕たちは、自分に問いを与え続けてくれる相手と巡り会うために生きているのかもしれない。

「わからない」対象は、何も生身の人間でなくても構わない。学問や芸術や信仰に身を捧げる人達の多くは、わからないものをわかろうと、「難しくても決して投げ出さずに答えを出し続ける」人なのだと思う。僕たちは、「わからない」に促されて人生を豊かにしていく。子どもがあんなにも生き生きと毎日を生きることができるのは、わからないことだらけだからだろう。Sense of wonderとは、知らないことに出会えた時の驚きである。

 

「知った気」になってはいけない

だが、残念ながら、人はどこかで答えを出し続けることをやめてしまう。その人やもののことをわかった気になってしまうのだ。それは、多くの場合、相手が自分のものになったと思った瞬間にやってくる。自分のものでないと追いかけていた時はあんなに一生懸命答えを出そうとしていたのに…。

「君のことがわからなくなった」というのは別れの言葉の常套手段だ。わからなくなった?わかった気になったことがそもそもの間違いなのに、わかろうと努力することをやめた自分がいけないのに、あたかも相手が悪いかのように言って関係に終止符を打とうとするのだ。

「知った気になって接した瞬間に相手は新しい顔を見せてくれなくなるし、君の停滞も始まるもんだよ」という教授の言葉は正しいが、僕たちは多くの場合、この過ちを繰り返してしまう。簡単に「知った気」になってはいけないのだ。

(c)Creative Commons

 

マーケティングの間違い

これは、人と人の関係のみならず、企業と人との関係においても言えることだと思う。

たいていの企業はマーケティングと称して消費者のことを調査する。最近は「その人のことをきちんと知ろうと目を凝らし、耳をすます」ために、エスノグラフィー調査のような文化人類学の手法も使われている。ものが簡単に売れない世の中だから、企業は消費者(最近は「生活者」と言い換えるのが流行だけど…)のことを知ろうと必死だ。顕在化したウォンツやニーズよりも、無意識の本音を意味する「インサイト」などという言葉がもてはやされるのも、それだけ消費者が見えにくくなっているからだろう。Web上のつぶやきから消費者の集合無意識を探り当てるSocial Listeningと言われる手法もアメリカでは流行っている。

ますますマーケティングの手法は進化していくことと思うが、そもそも根本が間違っていると思う。「目を凝らし、耳をすます」前提には、「その人のことを好きだ」という思いがあるべきだと思うからだ。商品もサービスも、そもそも人のためにある。人に振り向いて欲しくて、自分のことを好きになって欲しくて、一生懸命ものをつくり、サービスを尽くす。そして、そうやって人と知り合う中で、ますます相手のことを好きになる、というのがビジネスの本源であるべきだと思う。

なのに、今は、多くの企業で「売ること」が目的になってしまっているように感じる。売れなければ生き残れないから当たり前だが、いくらどんなに目を凝らし、耳をすましても、「相手のことを好きだから知りたい」という思いよりも、「自分のことを好きになって欲しい」という思いのほうが先に立ってしまうなら、本末転倒だ。

 

好きになることから始めよう

何を甘いことを、と言われそうだけど、「愛」がなければビジネスなんて虚しいじゃないかと思う。稀代の技術者だった本田宗一郎は「技術は人のために」という信念を持っていたけれど、やっぱり人への愛を抜きにしたビジネスなんて意味がないと思う。そんなものに人生を捧げても、疲弊するだけだ。

どうやら僕達は、何のためのマーケティング調査なのか、何のための商品開発なのか、というところから問い直さないといけないのだろう。

浜石教授が言ったことの要諦は以下だ。

・相手のことを好きになると、相手のことを知りたくなる。知るための最善の方法は目を凝らし、耳をすますことだ。
・でも、知れば知るほどわからなくなるから、もっと知りたくなる。相手の投げかける問いに答えを出したくなる。
・そうやって問いを出し続ける努力を続けているうちに、気づいたら多くを与えられている(例えば、売上があがる)。

当たり前だが、「好き」が原点なのだ。好きでなかったら、好きになる努力から始めるべきだろう。好きになる努力をする前に、好きになってもらうための努力ばかりしていても、多くは与えられない。

では、好きになるためにはどうするか?

好きになるためには、そもそも相手と出会わないといけないのだと思う。それは、商取引の相手と看做す前に、相手の人間そのものと出会うということだと思う。売買の関係ではない、人間の関係を取り戻す、と言い換えてもいい。

効率重視で、すっかり人間の陰が薄くなってしまったビジネスの現場に、どう人間を取り戻すことができるか。それが問われているのだと思うのだが、どうだろうか。

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